春爛漫・今だけのトリュフ
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dari K to the World
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10年越しの夢が叶う

2011年3月にDari Kを創業して11年半。嬉しいことも悲しいことも、大変な苦労も、逃げ出したいことも、泣きたくなることも(あ、大変なことのほうが多い笑)、沢山あった。

でも、先日の出来事はDari K創業して以降、嬉しいことTop3に入るものだったので是非皆さんにも共有したいと思う。

今のDari Kの社員も知らないことではあるが、創業の2か月前の2011年1月、私はインドネシアのスラウェシ島にいた。まだこの時は、まさか自分がチョコレートで起業するとは思ってなかった時のこと。

スラウェシ島の空の玄関口であるマカッサル(旧名ウジュンパンダン)の空港から一人で街中に移動し、そこから夜行バスで南スラウェシ州のルウという県に向かった。今ダリケーのスラウェシの拠点は西スラウェシ州のポレワリ県であるので、実は創業前に私が入った地域(ルウ)と、その後Dari Kが拠点を置いていた地域(ポレワリ)というのは、同じスラウェシ島内ではあるが、厳密にいえば別の場所になる。

スラウェシ地図

(画像)スラウェシ島の地図。空の玄関口であり最大都市のマカッサルと、カカオ栽培が盛んなポレワリやルウ(ベロパ市)との位置関係

なぜ当時ルウ県に行ったかといえば、統計的には西スラウェシ州よりも南スラウェシ州の方がカカオの生産量が圧倒的に多く、しかもその生産の中心がルウ県やとなりのパロポ県だと事前にリサーチしていたからである。

幸い、自分のネットワークで(といっても、当時日本ではほぼやってる人が少なかったフェイスブックで友人の友人でスラウェシに住んでいる人をたどる、みたいな地道な作業があった)カカオ農園まで案内してくれる人を探すことができ、偶然同い年だったローカルの彼と一緒に夜行バスでルウ県に行ったのだった。

マカッサルからルウまでバスで片道10時間。今でこそ道はだいぶ舗装されているが、10年以上前は本当にすさまじかった。特に山道は、くねくねしたカーブが永遠と続き、現地の人もバスの中で車酔いしてゲロゲロしていた><。

そんなこんなで夜22:00くらいに出たバスは、翌朝ルウ県についた。しかし、当然バス停などあるわけもなくバスは幹線道路沿いにおもむろに停車して、そこで僕らは降ろされた。ローカルの彼に「こんな普通の道沿いでいきなり降ろされても、どこか分かからないよね?大丈夫?」と聞く私に、彼はニヤッと笑って「大丈夫、ほらこれを見て」といって信号機を指さした。

何のことか分からなかったが、よくよく話を聞くと、ルウ県ベロパ市には信号が1つしかない。今はどうか分からないが、10年前はそうだった。だから彼は、友人に電話をかけ、「信号で待ってる」とだけ言うと、10分もしないうちに彼の友人がバイクで迎えに来てくれた。

ウマールさんバイク2

(写真)バイクで農園を回る

当時を思い出すと、それだけで永遠と書けてしまうので話を戻すと、そのルウ県で私は初めてカカオ農園に行き、カカオ農家の家に泊めてもらい、カカオの発酵のことや、農家が困っていることなどを知った。出されたごはんには石が混じり、おかずは小さな魚の干物1つか、サンバルという唐辛子をメインにした辛味調味料に小魚を混ぜたもので、2日に一回くらい目玉焼きがご馳走として出た。

農家と

(写真)ルウ県のカカオ農家さん

そこで初めて、頑張って発酵したり品質を上げる努力をしても、カカオ豆の価格には反映されず、そもそも価格は海外の先物市場で決まり、農家は「今日の買取価格はキロ当たり何ルピアだ」とカカオ豆を集荷にくるコレクター(収集業者)にその場で言われることを知った。当然、価格交渉の余地はなく、またいくらで買い取られるかその日にならないと分からない。しかも、現金収入はカカオ豆の販売のみであるため、農家は「そんなに低い価格なら売らない」という選択肢は取れず、言いなりになるしかない。

この状況をなんとかできないものだろうか?その時の想いがダリケーの創業の動機になった。

2011年4月オープン当時

(写真)2011年4月のDari K店舗オープン当時

その後私はルウを訪れることはなかった。そして次に訪問したのはポレワリ県だった。

拠点を変えた理由は、ほぼ誰にも話してこなかった。聞かれなかったから答えなかった、というのが本音だが、おそらくダリケーの社員も含め、私が最初に訪れたのはルウではなくポレワリだと思っている人がほとんどだと思う。

なぜ初めに行ったルウでカカオ豆を買い続けなかったかというと、理由はシンプルだ。初めにカカオ豆を買いまわったときに、よく見るとカカオ豆の入った袋の中には、小石や枝などが沢山入っていたから。キロあたりいくら、で買い取る約束をしていた私は、袋の底の方まで確認せずに、重量だけ測って支払いをしていた。だから後々小石や枝が入っているのを見つけたときに、「せっかく自分が発酵を教えて、良いカカオ豆を作ってくれたら高い値段で買うと言ってるのに、なんでこんな仕打ちをするのだろう」と怒りと悲しさで滅入ってしまった。

今思えば、彼らに悪意はなかったのかもしれない。通常のコレクターにカカオ豆を売る際もそうしているのかもしれないし、おおざっぱな性格の人が多いので、カカオ豆だけキレイに選別する習慣がなかっただけかもしれない。ただ10年以上前に、まだカカオのこともカカオ農家のことも全く知らなかったナイーブな自分はそれが異常に悲しくなってしまった。(今思えば、彼らに悪意があったとは思わないのだけど、当時の自分はナイーブすぎた)

そんな私を見て、案内してくれたローカルの彼が、「次にスラウェシに来るときは、ポレワリ県に行ってみよう。あそこには、カカオ栽培に熱心に取り組んでいる人がいると聞いたことがある」そう言って慰めてくれた。

そういう経緯で、次に渡航した時に訪れたのはポレワリ県になった。

ポレワリ県はルウ県ほどではないが、マカッサルからバスで8時間、車で飛ばしても6~7時間はかかる。ただ山を越えなくていいので、だいぶアクセスは良く、移動は少しはマシになった。

そこで出会ったのがヘルウィンさんであり、彼こそが「カカオ栽培に真摯に向き合う若きリーダー」だった。英語が通じないので、英語が分かる人に通訳をしてもらいつつ、彼にダリケーがやりたいことを説明すると、彼はまさにそういう人を待っていたと喜んでくれた。

Herwin

(写真)農家の家でランチを食べるヘルウィンさん(オレンジ袖シャツ)

そもそもヘルウィンさんは、元来ポレワリに住んでいたカカオ農家ではなかった。都市であるマカッサルで育ち、カカオ農家にしては非常に稀で大学も出ていた。農業を学んでいたので知識もあり、たまたま結婚した奥さんがポレワリでカカオ農園を持っていたので、ポレワリに移住し、カカオ栽培をしていたのだった。

そんなヘルウィンさんには悩みがあった。彼はカカオ豆の品質を上げる上で、「発酵」が重要だと学んでいたが、周りの農家は誰も発酵をさせていない。実際にヘルウィンさんが発酵のやり方を他の農家に見せたり、伝えたりするが、誰も一緒にやってくれない。

「仕方ないさ、だって発酵させても、その労力に見合うだけカカオ豆の価格は上がらないのだから。キロあたり10円上がったところで、発酵させるには1週間ほど時間が長くかかるし、その間にカカオ豆の相場が落ちてしまったらどうだ?だったら発酵させずに乾燥だけさせてすぐ売った方が、手間もかからないし、現金もすぐに手に入るし、いいだろう?他の農家が発酵をしたがらないのも、わかるだろう?」

ヘルウィンさんは淡々と話してくれた。「だったら、僕は、発酵してくれたらキロ当たり30円から50円高く払うよ。それに毎日変動する国際相場に連動させず、この価格で買い取ると今約束したらどう?」私は彼に提案すると、彼は本気なのか?と言わんばかりの表情で、「それならやりたい農家はいると思う」と答えた。

と同時に、ダリケーはまだ設立したばかりで、何の実績もない。「何トンのカカオ豆が必要か?」と聞かれても、「まだトンレベルではなく・・・」という会話になってしまうのが歯がゆかった。しかし、そんなことはお構いなしという感じで、ヘルウィンさんはダリケーを全面バックアップしてくれると言ってくれた。それ以来、ヘルウィンさんはダリケーの現地のカカオ栽培や調達の相談役となり、後に彼が組織するUIHというグループは、ダリケーの現地契約農家に対して栽培や発酵の指導をするパートナーとなった。

UIH

(写真)UIHのメンバーたち。UIHはUntuk Indonesia Hijau(インドネシアを自然豊かなグリーンに)の略であるが、実は写真のUmar(ウマール)、Ical(イチャル)、Herwin(ヘルウィン)の3リーダーの頭文字でもある

以上、ヘルウィンさんとの出会いがあり、ルウ県からポレワリ県へダリケーの現地拠点が移ったわけだが、このヘルウィンさんに初めて会った時に、私は彼の娘にも会っていた。名前はルラといい、当時はまだ小学校の1,2年生だったかと思う。そもそも外国人と会うことなどない農村だから、外国人の私が自分のお父さんと話しているのは興味があるけど怖かったのか、とてもシャイで、私がインドネシア語で挨拶しても、恥ずかしくてお母さんの後ろに隠れてしまう子だった。

ある日、夕飯を食べ終えて、コーヒーを飲みながらヘルウィンさんに聞いたことがある。

「ルラはいずれヘルウィンさんの農園を継ぐの?」

私はてっきり、「そうだ」という返事が来るのかと思ったら、ヘルウィンさんは意外なことを言った。

「ルラがカカオをやりたいというのであれば、もちろんやればいい。でも、カカオをやるのは大変だ。病害でカカオがやられる年もあるし、雨が降らなかったり、降りすぎてあまり収穫できない年もある。それに剪定も接ぎ木も収穫も発酵も乾燥もどれも肉体作業だ。こんなに大変な作業をしても、カカオ豆の価格がいくらになるかなんて売る当日しか分からない。できれば大学に行って、色々学んで、好きな職業についてもらいたい」

子を持つカカオ農家の親の素直な気持ちだった。

「でもね、ケイ(私のこと)。今言ったことはもちろん理想だけど、現実的には難しいんだ。大学に行くには大学の入学金から学費、そして下宿代や食費などの仕送りも必要になる。カカオ農家にとって、その費用を出せるところがどれだけあると思う?すごく難しい。」

ヘルウィンさんは続けてそう言った。言われてみればその通りだ。インドネシアの大学の学費は年間2000ドル~3000ドル程度。当時のインドネシアの1人当たりGDPは3000ドルくらいだったので、平均的なインドネシア人の年収相当だ。しかもインドネシアの首都ジャカルタのサラリーマンとスラウェシの農家では収入レベルが全然違う。インドネシア人の総平均が3000ドルだとしても、ジャカルタは7000~8000ドルで、スラウェシの農家は1000~1500ドルくらだったと思う。

スラウェシのカカオ農家は平均1ヘクタールくらいの農地を持ち、カカオの収量は年間平均500㎏程度だ。農家のカカオ売渡価格はキロ当たり当時2ドルもいってなかったはずから、やはり現金収入は年間1000ドルくらいの計算になる。これでは授業料だけで年間2000ドルする大学にこどもを送ることはできない。

ヘルウィンさんの話を聞いた時、私は日本の現状と比較せずにはいられなかった。日本では大学はごまんとある。どの大学も学生を集めるのに必死で、ストレートな言い方をすれば、学力関係なく、お金さえあれば誰でも大学に行けるのが現状だ。一方インドネシアでは、大学は学力はもちろん、お金もないといけない。田舎の農村出身の子どもが大学に行くのは、僕らが想像する以上に大変なことだ。

その時から僕は「子どもが大学にいけるくらい、カカオ農家は頑張ればそれなりの収入が得られるようにしたい」ずっとそう思ってきた。

2018年にダリケーがベンチャーキャピタル(VC)から出資を受ける時も、「ダリケーは『カカオを通して世界を変える』『努力が報われる社会にしたい』と言っているけど、具体的にはどういうこと?」と聞かれたが、「例えばカカオ農家の子どもが大学に行けるようになること」と話した記憶がある。それ以来、VC担当者と私の中では、「カカオ農家の子どもが望めば大学にいけるくらい、収入を上げよう」という暗黙の目標ができた。

そして夢は叶った。叶ったばかりか、奇跡を伴ってとんでもないことが起きた。

先日、ヘルウィンさんの娘のルラが来日した。そして京都のダリケーの店舗に来てくれたのだ!

ルラ写真

(写真)京都のダリケー四条河原町店に来てくれたルラ

ルラがスラウェシ随一であり、インドネシアの大学の中でもトップレベルのハサヌディン大学に入学したのは聞いていた。それだけでもヘルウィンさんの夢が叶ったことにすごいなぁと感心していたが、なんとルラはハサヌディン大学と協定を結んでいる愛媛大学との交換研修的なプログラムに応募し合格して、自分の力で日本に来たのだ!

実は、ヘルウィンさんは日本に来たことがある。というかダリケーが彼を日本に数年前に招待したことはあった。それは彼がこれまで何年もダリケーを支えてくれていたし、彼にダリケーの店や百貨店などでダリケー商品が販売されている様子をみてもらいたくて、バレンタイン時期に阪急百貨店さんと一緒に農家3名をスラウェシから招待した。

阪急セミナー

(写真)阪急百貨店のバレンタイン催事でゲスト参加したUIHメンバー

もちろん、招待したから彼らに金銭的な負担があったわけではない。でも今回は違う。ルラは一生懸命勉強し、そしてヘルウィンさんはルラが大学に行けるように一生懸命カカオ栽培に取り組み、そして大学進学が叶った、そればかりでなく、ルラは憧れだった日本に来るチャンスを自分の力で手に入れたのだ。

ダリケーはコロナ前まで、毎年カカオ農園ツアーを行っていた。これまで延べ300人以上の日本人をスラウェシのカカオ農園に連れていったが、そのほとんどがヘルウィンさんやルラに会っている。ルラは小学生の時から、毎年日本人が遠路はるばるスラウェシまでやってきて、自分のお父さん(ヘルウィンさん)の話を聞き、そして農園に行くのを見ていた。日本人のツアー参加者はいつも日本の土産を持ってきてくれる。ルラは日本にすごく関心を寄せるようになっていた。

ツアー写真

ツアー2017集合写真@農園

(写真)毎年行っているカカオ農園ツアー(上:2016年、下:2017年)

「いつか日本に行ってみたい!」ルラはいつしかそう言うようになっていた。

その夢が叶った。ルラも頑張った。ヘルウィンさんも頑張った。みんな頑張った。頑張ったら、その努力が報われた。

それだけで十分。それ以上何を望むことがあるのだろうか?

でもこれはものすごく難しいこと。頑張っても報われないことなんて世の中、山のようにある。

だからダリケーは存在する。だから人生をかけて挑戦する。

「カカオで世界を変える、なんて無理だ」と面と向かって言われたこともある。揚げ足をとるような指摘を受けることもある。「思っていたのと違う」と言われることも少なくない。

でも、誰が何を言おうと関係ない。結果を出すかどうかがすべてだと思っている。

実はここ半年くらい、私はかなり悩んでいた。現場から離れる時間が多く、現場の感覚が分かりづらくなってしまっていたから。「All-winチョコレート」を掲げ、(チョコレートの)消費者も(原料カカオの)生産者も、(それを取り巻く)環境も、すべてwin-winにしたいと思っていたのに、お客様からもカカオ農家からも、インドネシアの農園からも遠ざかってしまっていた。

だからここ1~2か月は意識的に動いた。お客様ともっと自分が直接話したいし、お客様が考えていることを知りたいと思い、三井農林(日東紅茶)さんと紅茶のペアリングイベントをしたり、三重のカラフルコーヒーさんで挽きたてカカオを味わうイベントをしたりした。また、先週まで新宿タカシマヤさんに2週間ほど催事出店し、自分も週末は店に立ち、直接イートインメニューを作って提供したりした。ずっと断り続けてきた講演も少しずつ受けるようにして、神戸のフェリシモさんや大阪商工会議所さんで話をさせていただいたりした。

そろそろ次はカカオ農園で生産者さんや自然環境と向き合う番。コロナも落ち着き、海外渡航もしやすくなってきたので、インドネシアの農園でまた新たな挑戦をしてこようと思う。次は何をしようか、またワクワクが止まらない。